岡田裕之 私のキャリアブレイク

「裏切られた…」から、「復活者になろう」へ。
それは、私の再創造の原点でした。
私が危機感を覚え始めたのは1995年。
日本は停滞し、若者の創造力も弱く、これでは未来が描けない。
20代のころの私は、当時としては珍しかったMBAスクールに自費で通いながらも、「論理だけでは何も生まれない」と感じていました。
論理と感性を行き来する思考力が必要だ――
そう考え、人間科学(産業組織心理学)を学び始めました。
一方で、日本では「心を扱う学び」はまだまだネガティブなものととられがち。心理学や感性の学びは敬遠される傾向がありました。
研究の結果、心の必要性を感じていても、何も対処していない人が多いことが見えてきました。
「これは、必要なのに、かっこ悪いと思われている」
だからこそ私は、“心理を学ぶのはかっこいい”という文化をつくりたいと強く思ったのです。

5年で日本最大の心理スクールへ
2000年、私はアメリカから実践心理学プログラムを導入し、日本仕様に再設計。心の領域を、スキルとして学べるものに仕上げました。
属人性を消し、目的と理論性を持たせ、まるでMBAスクールのカリキュラムのように“心の技術”を磨けるような講座に再構成しました。
それが東名阪でブレイクし、大手スクールと組んで全国に拡大。数万人が受講し、世界最多の認定者数、日本最大の心理スクールに成長しました。
なぜ私は規模を追ったのか?
文化にするには、「数」が必要だと感じたからです。
私は現場から離れ、経営に徹し、2005年には業界世界一に。
今では書店にも、その実践心理学のコーナーができるほどになりました。
しかし、社内では問題が頻発し、業界では足の引っ張り合いが起きる。私は心の中にモヤモヤを抱えながら、新しいことを始められないまま、スタッフを叱責していました。
成功の中で私たちは少しずつ「創造性」を失っていました。
今振り返れば、トップである私自身が“現状維持マインド”に陥っていたのです。

2011年。
東日本大震災がすべてを変えました。
東京駅前の高層ビルで激しい揺れに見舞われ、命の危険すら感じながら、私は全国100クラスの閉鎖を決断。
その混乱の中、裏でくすぶっていた不満や離反のエネルギーが一気に噴出しました。
スタッフ、トレーナー、大手スクール、アメリカの協会本部。すべての人たちが、一斉に私から離れていったのです。
成功を支援してくれていた人や組織から、裏切られた。
普通の青年が、ひょんなことから成功し、人に恨まれるような激しい性格でもなかった。
にもかかわらず「人に裏切られた」。
当時の私の心の中は、その思いで一杯になっていました。
残ったのは多額の借金と、3人のアルバイトさん。
東京も大阪も…夜逃げするかのように拠点を手放しました。
その後、私は協会との交渉のために渡米。ニューヨークで悶々とした日々を送っていました。
そんなある日、セントラルパークの樹の下に、大きなため息とともに座った時のことです。
腰を下ろすその瞬間、心の奥底から、ある感覚が沸き上がってきたのです。

「ヨシ、自分が“復活者”になろう」
たった0.5秒の心の転換でした。
現実は変わっていない。でも、マインドのリアリティが変わると、世界の見え方が変わる。
成功して、挫折して、再創造。――この経験は、人のためになる。
私はこの瞬間から、創造的マインドの専門家として再出発することを決めました。
そして気づいたのです。
人は裏切ったのではない。それぞれに「目的」があったのだと。そして、トップのゴールが、メンバーの目的を包み込めていなかったのだと。
組織は「失敗」で崩れるのではない。
創造性を止めた瞬間、内側から静かに壊れていく。
それが成功アレルギーの本質であり、現状維持マインドの怖さでした。
この体験が、私の「創造的マインド構築モデル」の土台となりました。
枠を超えるマインド、問いを深める力、違和感に飛び込む勇気――それこそが、人と組織に必要な“変化と創造のエンジン”です。

今。創業から四半世紀
あれから十数年。
創業からは四半世紀が経ちました。
私は企業・医療・教育の現場で、再起動と再創造のプロセスを支援し続けています。
このキャリアブレイクは、私にとって「すべての要素が統合される時間」でした。
いま、私は理屈ではなく、マインドの現実に立って支援を続けています。

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